観光 文化/遺跡 三忠檀

三忠檀

三忠檀

三忠檀

三忠檀
指定番号 指定名称 指定日付 時代 所在地 管理者
第9号 三忠檀 1986.4.28 朝鮮 上牌洞894 成均館儒道会東豆川支部
  • 號牌碑 : 高さ67㎝、幅28㎝、厚さ10㎝
  • 規模 : 正面9.6m、側面7.2m

三忠檀は1453年(端宗1)から1456年(世祖2)まで首陽大君(世祖の即位前の君号)の王位簒奪に抗して端宗の復位に加わった閔伸、金文起、趙克寛ら三人の忠臣の業績をたたえるため、1932年9月に金文起の子孫が楊州儒林の協力を得て、号牌碑を建て毎年春秋に吉日を選び祭った所である。

閔伸(?∼1453)先生の号は遯菴、本貫は驪興である。文宗時代に兵曹判書と吏曹判書を歴任した。端宗元年の癸酉靖乱(首陽大君の王位簒奪)の際、顕陵碑役の監督中、碑役所で惨事にあった。正祖代に復官され諡号は忠貞である。

金文起(?∼1456)先生の字は汝恭、号は百村、本貫は金寧である。1426年(世宗8)式年文科に合格した後、検閲、正言、咸吉道観察使を経って吏曹判書に至った。1456年(世祖2)に端宗復位運動に加わり処刑された。英祖代に復官、諡号は忠毅。趙克寛(?∼1453)先生の本貫は楊州である。

1414年(太宗14)文科に合格した後、1441年(世宗23)に右承旨(正3品)、平安道観察使を経って1451年(文宗1)に同知中枢副使、大司憲、右参賛を執り行った。端宗元年に吏曹判書になったが、1453年癸酉靖乱の際、撃殺された。

一方、坡州市法院邑東文2里san725番地にも、閔伸、金文起、趙克寛、皇甫仁(?∼1453)、金宗瑞(1390∼1453)、鄭苯(?∼1454)などを端宗の死六臣として祭っている月桂壇がある